靖国神社というところ

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110805/trd11080507410002-n1.htm

産経節全開でどこから突っ込んだらいいかわからないくらいな記事なわけだが、一応。

中国や韓国が何と言おうと、首相をはじめ、閣僚や国会議員は靖国神社に参拝する義務がある。

公明党の大臣(在職中)や国会議員が、「義務だから」と言って参拝した例があれば教えてほしい。

戦死をしたら靖国神社に祀(まつ)るというのは、法律などに規定があるわけではない。だが、それは戦死するかもしれない人々と、残された人々との黙契(もっけい)であるからだ。黙契であるからこそ、万が一にも戦死をしたら生き残った人々、すなわち大臣から一般庶民に至るまで、自分に感謝と慰霊の参拝をしてくれると信じて、命を的(まと)に戦うことができたのである。

そう信じている人もいる。一方で、そう信じていない人もいる。だから過去に「勝手に祀られた」と言って訴訟になってたりもする。もし当時の日本国民の多くがそう思っていたのなら、それはおそらく「国家神道」の力を借りて政府がそういう「洗脳」を行ってきた結果、そのように思い込まされていただけなのだろう。

また、自分の家族が戦死しても、大臣から一般の人々までが、参拝をしてくれることで、遺族も心を癒やされるという一面があった。

いやだから、そういう人ばかりじゃないんだって。

そして何よりも大事なのは、国家が祭祀(さいし)を行うということなのだ。

ここ重要。慰霊碑を作ってどうこうということではなくて、国家、言い換えれば政府が宗教的に(今回でいえば靖国のしきたりにのっとって)お祀りしなければいけない、と言っている。これは何度も憲法違反として指摘されている行為。だから過去には「靖国神社国営化論」が出てきたし、戦前の段階でも「靖国神社は宗教施設ではない」という苦しい言いのがれをしてごまかしていた部分でもある。

国家、国民のために、自己のあらゆる可能性を放棄せざるを得なかった戦死者に対して、国家が何もしないのならば、今後、国家、国民のために命を捧(ささ)げようという人は出てこないであろう。

戦争をする気満々なフレーズ。

とはいえ、私も中国や北朝鮮が血迷って日本に何らかの攻撃を仕掛けてくる可能性は否定しません。というか、いざというときに「国がきちんとお祀りしてくれなきゃ戦わない」とかぬかすような人に守ってほしくないなあ、というのは正直な気持ち。

戦犯とされた人が合祀(ごうし)されているとか、神道形式だとかというのは、些末(さまつ)な問題にすぎない。

「些末な問題」と言い切っちゃうあたりが、普段特定の信仰を持たない人の悲しいところで、特定の信仰を持つ人にとっては重大な問題だということに全然気づかない。「自分がされて嫌なことは人にされても嫌なんだから、やってはいけない」というのは多くの人が共通することだと思うが、逆の「自分がされて嫌じゃないから、人にしても嫌がられないので、やっても問題ない」というのは全く成り立たない。ここで言ってるのはまさに「自分がされて嫌じゃないから、人にしても嫌がられないので、やっても問題ない」と言ってる行為。

少なくとも産経の人たちは、無宗教を通り越して「宗教に対して鈍感」になってしまったんだろうなぁ、と実感。

今日の文章の参考リンク http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20110811/1313080422